【地域医療を考える】石川県奥能登地方の現状#1 令和6年能登半島地震の記憶〜震災当日から現在まで〜

はじめに

初めまして。私は石川県の奥能登(穴水町、能登町、輪島市、珠洲市からなる二市二町の総称)に位置する、能登町の塾で講師として働いている者です。

出身は長崎県で、大学時代は広島大学で物理を学び、長崎に戻ってから塾講師を始め、医学部専門予備校などを経て、石川県にやってきました。

講師業に従事する中で、地方と都市部の教育格差について関心が芽生え、地方の教育を改めて考えるために地域おこし協力隊として能登町にやってきました。

能登の里山里海は世界農業遺産として風光明媚な場所で知られており、また祭りが盛んな場所でもあります。

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能登町は雨がよく降ります。これは雨宿りした後の景色です。

 

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PEACEというライダーズハウスで撮影した夕暮れの海です。広い海が一望できる場所でした。

 

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能登町宇出津の昼間と夕暮れ時の写真です。晴れた日には向かい側に立山連邦が見えることもあります。

 

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7月には能登町最大のお祭りである、あばれ祭りが開催されます。キリコと呼ばれる巨大な灯籠を担いで回る様は圧巻です。町外からも多くの人が訪れています。

 

奥能登の人口問題

奥能登は急激に人口が減少している地域です。1950年には15万7860人だった人口が、令和5年には5万5566人まで減少しています。(※)おおよそ70年で70%減です。今後さらに人口減が加速していくと考えられています。

日本では少子化が進んでことを考えると、今現在、奥能登で起きていることは、今後日本各地で起きることだと言えます。

※いしかわ創生人口ビジョン(改訂版) 参考資料 いしかわ統計指標ランド 石川県の人口と世帯

 

奥能登に住むようになってから、地方と都市部の教育格差のみならず、過疎地域の様々な問題を考えるようになりました。その中の一つに、地域医療の問題があります。私は医学部予備校に勤務した経験もあることから、今回奥能登の地域医療についての記事を担当させていただくことになりました。

このシリーズでは令和6年能登半島地震の現状や、奥能登が抱える地域医療の問題、現地の声などを発信していく予定です。

第1回の記事は、地域医療から少し離れますが、まずは能登を知っていただくという意味で、令和6年能登半島地震が起きた1月1日から現在までの状況を、私自身の体験談も含めてお伝えしていきます。

 

震災当日

1月1日は能登町宇出津の自宅にいました。高校3年生の共通テストが近く、1月3日から塾を空ける予定だったため、正月の帰省は控えていました。地震が起きた時間は16時10分くらいでした。震災後、その時間で止まった時計を多く目にしたことを覚えています。

まず本震が起きる直前に、強めの地震がありました。その揺れは過去に体験したことない揺れだったので、危険を感じて外に飛び出しました。揺れが収まってから部屋に戻ると、珠洲市の方で震度5(能登町宇出津は震度4)の地震があったという情報が入ってきました。この時点では津波の心配もなかったので、部屋に留まっていました。実家から安否確認の連絡が来たので、大したことはなかったと返信しました。

 

そして数分後、2回目の地震が起きました。1回目の地震ですら、過去に体験したことのない揺れでしたが、2回目の地震は、その1回目と比べても、比較にならないほど強烈のものでした。耳を覆うような轟音と、上下左右に波打つ凄まじい振動で、即座に死の危険を感じたことを覚えています。

揺れを感じた瞬間、スマートフォンを咄嗟に掴んで部屋の外に出ようとしましたが、1回目の地震と異なり、あまりの上下動で廊下をまともに歩くことすらできませんでした。

 

壁に手を当ててふらつく足元を支えながら、かろうじて家の外に出ましたが、いまだに揺れは収まっていませんでした。海辺に住んでいるため、咄嗟に津波のことが思い浮かび、近隣の一番高い建物である病院に逃げようと考え、そちらの方に走ろうとしたのですが、まだ揺れは続いていました。躓きそうになりながら自宅近くの横断歩道を渡ったところで、揺れが収まりました。体感的には1分近く揺れていたように思います。終わった後は首筋に冷たいものを感じました。

 

避難場所の病院に逃げ込んだ後は、まずは実家の方に安全を確保したことを伝え、色んな人への安否確認のメッセージを返していました。そして大量の安否確認が来たことで、この地震が過去の大震災と同じような規模であることが予想できました。

それからは病院内で、津波を警戒しながら過ごしていました。余震もずっと続いており、気が休まらなかったことを覚えています。しばらくして一旦自宅に戻り、異常がないかを確認しました。幸い、断水していること以外は、テレビが倒れたくらいで、大事には至りませんでした。

自宅を確認した後は、避難所が開設されていた近隣の小学校に移動しました。、正月ということもあり、二世帯で避難している家庭が多かったです。余震は深夜まで続き、震災アラームが絶え間なく流れていたので、寝ては起こされるという状態でした。

余震のストレスは想像以上に大きく、例えるならば、いつ敵に襲われるかわからない戦場で時間を過ごしているようなものでした。少しも気が休まらないので、震災経験の中では一番のストレスだったと思います。

 

その後

震災後の町内

震災後に撮影した宇出津の写真です。建築物の倒壊に加え、道路の状況がかなり悪くなっていました。

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この建物は震災が起きた直後には、まだ一階部分が残っていた記憶があります。後から撮影した時には、もう一階部分は残っていませんでした。

 

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近隣の仏閣の状況です。神社仏閣は古い建物が多く、どこも被害が大きいように見えました。

 

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このように完全に倒壊してしまった建物も見られました。

 

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道路の亀裂

震災直後は道路が亀裂だらけでした。特にマンホール部分はどこも飛び出るように盛り上がっており、車を運転するのはかなり危険な状況でした。

 

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この歩道の周辺は古い埋立地であるらしく、その影響を受けて液状化も見られました。

 

震災後の復旧状況

自衛隊などの復旧部隊が到着したのは翌々日くらいで、そこからは支援物資が徐々に届くようになり始めました。ただ支援は難航していたと聞きます。奥能登へ向かう主要な道路が崩落したことで、通常なら2時間半程度で到着できる金沢から、半日かけてやってくる、という状況になっていました。

医療に関しては、近隣の病院では、当面の間外来診療が制限され、薬の処方のみという対応になっていました。さらに断水の影響が大きく、透析が必要な患者は他地域に移動したようです。

 

学校に関しては、小中高ともに、しばらく休校になっていました。1月下旬ごろから少しずつ再開されましたが、通常の状態に戻るまでには、そこからさらに時間を要しました。

学校、教育、医療、流通、小売、インフラ、土木建築など、様々な部分に問題を抱える中でも、支援者、地元の人間、行政等の力により、日を追うごとに、復旧が進んでいるのが実感できました。ただひとつ、水道だけは他に比べて復旧が遅れていました。水道管は地中に埋めているため、補修が難しく、災害の中では一番復旧が遅れるものだそうです。

 

私の住んでいる場所でも、水道が戻ったのは3月下旬、日数では80日程度かかっています。その間は給水車がいる場所へ水を汲みに行ったり、自衛隊が用意した大風呂に入ったりして、急場をしのいでいました。水が使えない間は、日常生活がいつまでも戻らない感覚があったのですが、使えるようになってからは、ようやくひとつ肩の荷が降りたような気分になりました。

現在はようやく公費解体が始まったようで、放置されていた道路の破片や全壊した建物の撤去などが進んでいるところです。

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執筆者


 

中村 俊介


1984年生まれ長崎県長崎市出身 石川県鳳珠郡能登町在住
広島大学理学部物理科学科卒業
広島大学大学院先端物質科学研究科量子物質科学専攻博士課程前期修了
複数の塾を経てPMD医学部専門予備校に入社
その後能登高校魅力化プロジェクトに参加
現在はまちなか鳳雛塾に塾コーディーネーターとして勤務

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